証拠保全
Aは心臓病に罹患し、Y医療法人の運営する病院に入院し、手術を受けたところ、手術中に病状が悪化し死亡した。Aの妻であるXは、手術の執刀医に説明を求めたところ、「もともと患っていたAの心臓が手術中に止まったものであり、不可抗力であった」と繰り返すだけであり、納得できない。そこで、Xは真相究明を求めて訴訟を提起しようと考えているが、Yの医療過誤について主張していくことは難しいので、Xは、Aの死亡との因果関係について主張していくことは難しいので、Xは、Aの診療録等の診療の安全性を求めて証拠保全の申立てをした。このような証拠保全は認められるか。●参考判例●広島地決昭和61・11・21判時1224号76頁●解説●1 証拠保全制度の意義証拠保全とは、訴えを提起して本来の証拠調べの時期まで待っていたのでは、証拠の利用が不可能になったり著しく困難になったりするおそれがある場合に、あらかじめその証拠調べを取り調べておき、その訴訟手続において利用することを可能にする手続である(234条以下)。例えば、ある事件について争点を知っている証人が死亡するおそれがあるとか、訴えを提起して争訟問題として争っている間に証拠がなくなってしまうおそれが大きいときに、あらかじめ証人尋問をしておく、後者の訴訟手続でその証言を証拠資料とするような場合が典型である。ただ、実際の訴訟事件ではこのような典型的な事由はなく、現実に証拠保全が利用される場面としては、その多くが本問のような医療事故関係の事件において申立てが認められる場合である。この場合、事故関係者の供述はその後、カルテ等のコピーをとり、そこに記載された情報に基づき主張等を作成することになり、実際には提訴に際した情報収集の手段として用いられているとされる(ただ、最近では、個人情報保護法で本人の診療情報の開示請求が認められ(個人情報25条)、これは診療記録にも適用になると解されるし、厚生労働省の「診療情報の提供等に関する指針」などによって、医療機関から任意に診療記録が開示される場合も増えているとされる)。2 証拠保全の要件証拠保全が認められる要件は、「あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情がある」ことである(234条)。この要件の充足については、前記のような瀕死の証人といった場合は明確であるが、診療記録の保全のような場合にはどこまでの事情の主張・説明が求められるかが問題となる。この点については、抽象的な改ざんのおそれがあれば足りるとする見解と、客観的・具体的な改ざんのおそれを必要とする見解とに分かれる。そして、後者のような見解については、そこで必要とされる改ざんのおそれの程度について、さらに考え方が分かれる状況にある。判例の立場として、いまだ最高裁判所の判例は存在しないが、下級審判例として、参考判例①は3つの代表的な立場を示す。それぞれは、個々の事案に即した具体的な主張や疎明が必要であることを前提に、以下のように述べる。すなわち、「Aは、『自己に不利な記載を含む証拠を自ら有する立場に、これを意にそまぬまま提出することを欲しないのが通常であるから』といった抽象的な改ざんのおそれでは足りず、訴訟に敗訴しないための措置をとるといった、当該医師が、患者側から診療上の問題点について説明を求められたにもかかわらず相当な理由なくこれを拒絶したとか、或いは責任回避を矛盾しない虚偽の説明をしたとか、その他これらに不誠実な態度で終始したことなど、具体的な改ざんのおそれを一応推認させるに足りる事実を疎明することを要する」との立場である。これは、前述の見解の対立に関して言えば、具体的な改ざんのおそれを必要とする見解に含まれるものといえる。そして、そのような立場は裁判所の一般的に傾向と評価でき、また学説においても多数説に属するといえよう。ただし、この裁判例は「抽象的な改ざんのおそれ」については「一応推認させるに足りる事実」の疎明を必要とすることにとどまり、この見解の中でも比較的緩やかに改ざんのおそれを認める考え方によるものとみられる。具体的な事案の処理の関係でも、原審では改ざんのおそれが否定されているにもかかわらず、参考判例①は同じ事実関係を前提に改ざんのおそれを認めている。また、参考判例①は、改ざんのおそれを判断する要素として、①診療の改ざんの有無、②医師の説明拒絶・虚偽説明が掲げられている(学説などではほかに、当該医師等の診療の記録の管理権限などを挙げるものもある)。以上のような見解に対して、抽象的な改ざんのおそれだけで足りるとする見解も、学説上は有力である。このような見解としては、前で詳述するような証拠保全の機能を正面から認めて証拠使用の困難性という要件をそもそも重視しない考え方や、診療記録に関する実体法(準委任契約)上の閲覧(報告)請求権(民646条)を前提としてその簡易な実現方法として証拠保全を捉える考え方などがある。改ざんのおそれが抽象的でよいか具体的に必要かは、一般論として違いがあることは間違いないが、実際上の違いはどこまであるのかはやや疑問である。前記のように、具体的な改ざんのおそれが必要であるとしても、その程度が緩やかなものでよいとすれば結論に大きな差異はないかもしれない。当該医師に改ざんの前歴もない、また十分な説明がされているような場合には証拠保全を認めぬとか、見解が分かれる可能性があるが、紛争が発生するような事案を前提にすれば、このような結論は稀ではないかとも思われる(さらにカルテの管理的性格も問題となるが、この点では近時の電子カルテの一般化をどのように評価するかも問題となり、改ざんのおそれが一般的に現実的な懸念に乏しいとする見解もありうる)。3 証拠保全の機能以上のような要件をめぐる議論は、証拠保全の機能をめぐる見解の相違に起因する面がある。証拠保全の機能として、証拠を保全するという本来の機能が認められることは当然であるが、それに加えて、提訴前の証拠開示の機能を独立の機能として考えるかどうか問題である。医療過誤訴訟においては、事故に関する情報は基本的に原告が独占的に保有しており、患者側は事故原因について十分な情報がなく、医師の措置に何らかの問題があったのではないかという疑問を前提に訴えにとどまる場合が少なくない。しかし、不法行為訴訟であれ債務不履行訴訟であれ、患者側の医療過誤の先行すべきであった具体的注意義務を主張立証していなければならず、診療記録等の情報がなければそのような主張立証は非常に困難である。そこで、証拠保全の手続を活用して情報・証拠の開示を求めるニーズが生じる。すなわち、証拠保全によって得られた診療記録の情報に基づき、原告(患者側)が訴状を作成して訴えを提起し、具体的な主張立証をすることができるはじめて可能になるとすれば、このようなニーズを正面から制度の機能として理解するとすれば、そのような必要性がある限り、証拠保全の要件を緩和して解釈すべきとする見解が生じることになる。他方、証拠保全の本来の機能を重視する立場からは、このような証拠保全制度の利用は(仮にあうりうるとしても)副次的な機能にとどまり、それに基づき要件を緩和することは相当でないと考える。翻って考えてみると、民事訴訟における証拠や情報の開示は、現行民事訴訟法の制定やその後の改正において1つの大きな論点となってきた。とりわけ医療訴訟など被告となると、その者が十分な証拠を所持していないような証拠保全は訴訟の前段階において、その権利を実現するためには、証拠・情報の開示は重要な意義をもつ。現行法制定時には、文書提出義務の拡充や当事者照会制度が創設され、平成15年民訴法改正時には、訴え提起前の証拠収集制度が創設された。提訴前の原告の情報・証拠の取得という点では、後者が重要であるが、この制度はあくまで文書の所持者が任意に応じることを前提としており、強制力はなく、それに代替する機能は果たしえない。その意味では、アメリカの民事訴訟のように、当事者の情報収集を緩やかに認める強力な手段(いわゆるディスカバリーの制度)を我が国が有していない以上、問題は解決されない。そのような制度については批判も多い。その意味では、証拠保全の機能をめぐってなお議論は続いていく可能性があろう。4 証拠保全の手続現行法上、証拠保全は証拠調べの方法として定められている。したがって、証拠保全の手続としては、提訴後に可能な証拠調べの手続はすべて可能である。例えば、前述の瀕死の証人の例では、証人尋問の手続がとられ(提訴後も尋問ができる状況であれば、当事者尋問により再度の尋問の必要もある(232条))。診療記録の例の場合は、書証の検証と検証の申出にともなう。改ざんのおそれを前提に現状の固定が証拠保全の目的とされる以上、そこでは文書の意味内容自体が問題とならず、文書の客観的な状況の固定に意味があり、検証が相当ということになろう(実施上も検証で行われることが一般的である)。証拠保全が決定され、各証拠調べ手続がとられる場合には、提訴後と同様の証明力が認められる。例えば、証人尋問の場合、提訴後と同様に、証人に証言義務等が課される。診療記録の場合、文書に係る検証に文書所持者には民訴法220条の準用を認めていないと解される。すなわち、所持者に文書提出義務が認められない。提出を拒絶する場合には「正当な理由」がないとしてただちに制裁が科される場合を除き(223条2項)、所持者に対する制裁はない(検証自体は不能となるが)。提出後の真実性の可能性があります(同条1項による224条の準用)。証拠保全において、診療記録の場合、一般に相手方には検証の実施を知らせずに裁判官がいきなり検証場所に臨み、検証を実施することが通常とされる。相手方に事前に知らせると、改ざんのおそれがあるため、不意打ち的な実施が望ましい。証拠保全の決定では、検証物表示命令を発し、相手方が、検証の相手方が任意に提出しない場合には、裁判官が、検証物の提出を命じ、相手方がこの命令に従わない場合には提出命令を発することができるとされる(広島高決平22・6・23金総1356号23頁参照)。