裁判所の審判権
Aは、宗教法人山和寺の代表役員であった。山和寺は、周辺地域の高齢化・過疎化の中で檀家が減少し、収入が激減する状況にあった。そこで、Aは、アルバイトとして日本文化協会の主催する「僧侶心得養成講座」の講師に就任し、同講座を受講した者に有償で僧侶の資格を授与していた。ところで、山和寺は、包括宗教法人である恵信宗の傘下にあったが、宗教法人山和寺の規則では、同法人の代表役員は、恵信宗の規規によって山和寺の住職の職にある者を充てることとされ、住職は恵信宗の檀名であることとが要件とされていた。恵信宗の規律によれば、①教義を異にする異端を唱えて同宗の秩序を乱した場合には、恵信宗処分(僧名のを剥奪する処分)ができる旨、②宗制に反してはなはだしく宗の秩序を乱した場合には懲戒処分(僧派の職務を罷免する処分)ができる旨が規定されていた。なお、恵信宗の教典は、「邪義邪見の門戸を伝承した開祖大和神衛ー派の神霊ー如」であるとされている。Aの前記アルバルイトが露見したため、恵信宗は、①の規定を適用し、Aを異端処分とし、Aに代わって山和寺の新たな住職としてBを任命した。そこで、宗教法人山和寺(代表者B)は、Aに対し、山和寺の境内地の明け渡しを求める訴えを提起した。これに対し、Aは、反訴として、宗教法人山和寺に対し、Aが山和寺の住職の地位にあることの確認を求めた。これの訴訟において、裁判所は本案判決をすることができるか。本案判決をする場合にどのような判決をすることになるか。●参考判例●① 最判平成21・9・15判時2058号62頁② 最判昭和56・4・7民集35巻3号443頁③ 最判昭和元・9・8民集43巻8号899頁●解説●1 審判権に関する判例と学説の批判宗教団体に関する紛争が裁判所に持ち込まれた場合、裁判所が本案判決をすることができるかどうかが問題となる。裁判所法3条は、裁判所が裁判することができるのは、日本国憲法に特別の定ある場合を除いて「一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する」と規定する。そこで、宗教団体に関する紛争が「法律上の争訟」に該当するかが問題となる。「法律上の争訟」の意義としては、一般に、①当該争訟が当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関するものであり、かつ、②当該争訟が法の適用によって解決されるものであるものをいう。この点に関する判例の理解は、まず、当該訴訟における訴訟物が、例えば住職の地位の確認のように、単なる宗教上の地位にすぎない場合には、具体的な権利または法律関係の確認を求めるものということはできず、確認訴訟の対象となるべき資格を欠くとする(最判昭和44・7・23民集23巻8号1223頁、最判昭和55・1・11民集35巻1号1頁なども参照)。換言すれば、法律上の争訟の確認①の要件を欠くと考えている。他方、訴訟物が具体的な権利義務・法律関係に関する場合であっても、信仰の対象の価値や宗教上の教義に関する判断が訴訟の当否を判断する前提として当該訴訟の帰趨を左右する必要不可欠の争点に係わる場合には、その実質において法令の適用による終局的解決が不可能なものとして法律上の争訟に当たらないとされる(最判・昭和55・1・11、参考判例①などを参照)。換言すれば、このような場合には、前記の要件を欠くと考えているのである。このように、判例は2段階の判断枠組みをとり、訴訟物の段階で宗教上の事項の確認を求める訴えはそもそも許されないとし、訴訟物が世俗的な請求であっても、その前提問題として宗教上の判断が不可欠な場合にも訴えを却下するという考え方をとる。しかし、以上の判例がどのような判断の方法に対しては、学説からの批判も強い。まず、訴訟物レベルの判断についても、基本的に確認の利益の問題として捉え、宗教判断の有無(判例の判断)であっても、それを前提とすることでよって権利義務・法律関係に関する紛争を抜本的に解決することができるのであれば、確認の利益を認めるべきであるとの批判がある。次に、前提問題が宗教的な判断に関する場合には、それをもって訴えを却下しようと、訴訟物である世俗的な法律関係について司法上の解決が図られないことになり、原告の泣き寝入りを強いたり、原告の自己救済を招いたりするおそれがある。これは司法権の役割を放棄することになりかねない。そこで、①宗教団体に自律的な決定の尊重(②自己決定の尊重)を重視し、それに基づいて本案判決をすべきとする考え方(自主的決定尊重説)、②宗教的な主張がされた場合には、その主張は疎明に止まらないものとして扱い、一般的な主張・立証責任の法理により本案判決をすべきであるとする考え方(主張立証説)などが提唱されている。2 宗教上の地位の確認請求本問において、Aは、反訴として、宗教法人山和寺に対し、Aが山和寺の住職の地位にあることの確認を求めている。住職の地位は、一般に、寺院の挙動や重要な物の管理、教義を宣布するなどの宗教的活動の主宰者としての地位にとどまり、法律上の地位ではないと考えられている。その意味で、判例によれば、確認の対象としての適格を欠くものということになる。また、宗教法人山和寺の規則では、同法人の代表役員は、恵信宗の意によって山和寺の住職の職にある者を充てることとされているため、住職の地位は必然的に宗教法人の代表役員という世俗上の法律関係の基礎となる(「枢機思想」と呼ばれるものであり、多くの寺院で一般的にこのような形がとられている)。しかし、判例は、このような関係がある場合であっても、確認対象は代表役員の地位とすべきであり、住職の地位について確認請求を認める根拠とはなり得ないとする(最判・昭和55・1・11参照)。したがって、判例に従えば、本件Aの反訴は却下されることになる。これに対し、前述(1参照)の学説によれば、本件反訴が認められるそうか、論者の判断枠組みの相違によって判断が分かれることになる。では、Aの反訴を認めることが紛争の抜本的解決のために有用であるかどうかを考える。Aが住職の地位にあることが代表役員としての地位を基礎付け、またその法律関係の前提となっているのであれば、その点について確認する判決をすることはおよそ、紛争の抜本的解決に有益であるといえよう。ただ、このような判断をするのではなく、訴訟物の判断としてにおいて宗教的事項を直接問題とすること、山和寺や恵信宗における自動の自律に直接国家権力(裁判所)が介入するとの印象を与えるとの批判もあり得よう。しかし、この見解によれば、そのような介入は、理由中の判断の幅を大きくはしなく、むしろ紛争解決という司法の本来の役割に由来するものであり、裁判は失当であると答えることになろう。3 境内地の明渡請求本問における本訴の訴訟物は、宗教法人山和寺のAに対する(所有権に基づく)境内地の明渡請求であり、権利義務に関する訴訟であることは明らかである。ただ、そのような請求の理由としてはAの宗門追放の決定が主張され、その根拠として、「教義に異議を唱えて宗門の秩序を乱した」ことが挙げられている。そして、恵信宗の教典には、「邪義邪見の門戸を伝承した開祖大和神衛ー派の神霊ー如」であるとされるので、結局、裁判所は、原告の請求の当否を判断するためには、Aが行った行為(僧侶養成講座の講師に就任し、同講座を受講した者に有償で僧侶の資格を授与したなど)が「恵信宗の法門を伝承した開祖大和神衛ー派の神霊ー如」の判断をすべきことになる。ただ、そのために、必然的に、「恵信宗の法門を伝承した開祖大和神衛ー派の神霊ー如」とは何かを判断することを確定する必要がある。しかし、裁判所はそのような判断をすることは望ましくないし、またそのような判断は必然的に宗教の教義の解釈に介入し、国家権力をもってその内容を確定する結果を招くことになるからである。そすると、本問は実質的にみて法律上の争訟に当たらず、山和寺の訴えは却下されるべきことになろう。(ただし、境内地内はAが占有を継続することになり)、恵信宗の正統な手続により任命された新住職Bがその活動を行うためには、自力救済の手段が許されるとはいえない。前述のとおり、学説では、このような判例の帰結は厳しく批判されている。①上記教義に違反している事実を原告が主張していないのと同視され、その主張責任を尽くしていないとして、請求棄却の判決をすべきとする見解や、②Aの教義違反による異端処分について、恵信宗の自律的決定に当該と認められるのであれば、請求認容の本案判決をすべきとする見解も呈されている。ただ、このような考え方については、①宗教上の決定がされていてもそれを訴訟で採用できず、結果として宗教団体の活動が制約されてしまうとの批判や、②自律的決定を尊重することは宗教団体の恣意をそのまま司法が追認することになりかねないとの批判などがあり得る。他方、近時の参考判例①は、判例法理に対する上記のような批判も考慮したものか、本問のような場合には、宗教団体としてはむしろ教義の解釈を含まずに判断できる手続を執るべきであり、あえて処分するに当たっては裁判所の審査にも耐えうる程度の理由を示すべきである(宗教団体の自己責任である)という考え方を示唆するような判断をしている。学説の上記①のような考え方も、結局、裁判所が判断できるような世俗的要件を宗教団体の責任で用意するべきであるとの発想を前提にしているようにも思われ、その点での近時の判例と通底するものがあるようにみえる。●参考文献●高橋宏志・争点12頁/長谷部恭男・起訴・百選6頁/中野「日本基本・問題33頁(山本和彦)