忌避事由
XはYに対し、土地の所有権確認の訴えを提起した。第1審はXの請求を認容したところ、Yが控訴したが、控訴審は、Yの控訴を容れてXの請求を棄却する判決をした。ところが、控訴審判決の後、Xの訴訟代理人Aは、司法修習の同期会に出席して同期生と話をしている中で、たまたま本件訴訟の裁判長の裁判官であったB裁判官がYの訴訟代理人であったC弁護士の元上司(Bの良きがCの妻である)という事実を知った。聞いたAは早速Xに連絡して協議をしたところ、Xとしては、それでは控訴審がYを勝たせたのは当然であり、あまりに不公平な裁判であり、許し難いと激怒した。そこで、Xは、B裁判官が、裁判官の職務の公正を妨げる事情があったのにもかかわらず、それを秘匿して裁判したもので、Xの忌避権を不当に侵害したものであると主張して、上告した。Xの上告は認められるか。●参考判例●① 最決平成11・2・28民集9巻1号83頁② 最決昭和30・1・25民集45巻2号117頁●解説●1 除斥・忌避制度の存在意義裁判は、常に公平中立な裁判官によって行われなければならない。裁判官がいずれかの当事者に肩入れして不公平な裁判をするとき、裁判制度の正統性は崩壊する。また、裁判官が当事者と一定の関係があったとしても実際に公平を期そうと職務を執行することが期待できるが、当事者…親族の立場からみると、そのようにみえないことがある。裁判官が相手方当事者の代理人であったことがある、裁判官が相手方当事者と親しい友人である、といった場合である。裁判官の制度の正統性・信頼性を維持するためには、公平・中立性が担保されていることが、外観的にも担保する必要がある。ただ、裁判官も「市民」ではなく社会的な活動をする人間である以上、民事訴訟の当事者や訴訟事件との間に一定の関係が生ずることがある。そこで、民事訴訟法は、担当裁判官とその訴訟の当事者や事件との間に一定の関係が存在する場合に、裁判官をその裁判の職務から排除する制度を設けている。これが除斥・忌避の制度である。具体的には、まず民事訴訟法23条において、一定の事由が裁判官と訴訟事件との間に一定の関係(近親婚・共同権利者・義務者等の関係)があったこと、裁判官と事件との間に一定の関係(前の審理に関与、代理人、補佐人、調停員の関与等)があることといった画一的・定型的な理由を理由として、そのような事由が存在した場合には、当事者の申立て等がなくても当然に裁判官が職務から排除されることになる(そのような裁判官が排除されないまま判決に関与した場合には、絶対的上告理由(312条2項2号)のみならず、再審事由(338条1項2号)にもなる)。ただ、このような定型的事件だけでは、公平・中立性の外観を確保するためには十分ではない。以上のような事由に該当しなくても、裁判官の公平性を疑わせる事情は多く、例えば、担当する裁判官が当事者の一方の親友である場合、逆に不倶戴天の敵である場合、また、裁判官が(弁護士であった時代に)その事件について法律意見書を執筆している場合などである。そこで、民事訴訟法は、そのような場合に裁判官を忌避する制度を設けている。すなわち「裁判官に職務の執行を妨げるべき事情」があるときに、当事者の忌避の申立てに基づき、裁判官を職務から排除するものである。このように、忌避は、除斥を補い、多様な状況の下で公平・中立性の保障を確保可能にしたものであるが、除斥とは異なり、忌避の裁判は確認的な裁判であるが、忌避の裁判は形成的な裁判ということができる。2 忌避の判断以上のように、忌避の制度は、裁判にとって最も重要な公平性・中立性を確保するための制度である。他方で、その要件は一般条項的なものになっているので、裁判所の運用がその具体的な意義を決定することになる。この点で、最高裁判所の判断レベルは必ずしも高くないが(参考判例①)、裁判規範が明らかにされたものが多い(参考判例②が挙げた除斥事由に準ずるような客観的な事情の存在を重視する)。そこでは、一般条項として、本問と同様に、裁判所と当事者の一方の訴訟代理人の女婿であったという事案について、参考判例②は「除斥における裁判官が…原審におけるYの訴訟代理人の女婿であるからといって、右の事実は民訴35条〔現行23条〕所定の事項に該当せず、又これがため直ちに民訴37条〔現行24条〕にいわゆる裁判官につき裁判の公正を疑うべき事情があるものとはいえない」として忌避に理由がないとしている。本判決は、忌避要件について一般論を示さず、本件におけるそれに当たらない旨の結論を述べるにすぎない。また学説は、裁判官と当事者・事件との特殊な結び付きが、裁判官の公平な裁判をするおそれをうかがわせるに足りる、客観的な事情を必要とする。あくまで当事者・事件との特殊な結び付きを示す客観的事情が必要とされ、訴訟の過程での証拠の採否や訴訟指揮などは通常それ自体では忌避理由には該当しないと解される。この判決によれば、本問においてもXの上告は認められないことになろう。上記判決が忌避理由を否定した理由は明らかではないが、おそらく裁判官は、その訓練や倫理から、たとえ訴訟代理人と客観的な関係があったとしてもそれによって訴訟指揮や事実の認定を左右することのないよう自らを律することが可能であると信ずる、との信念があるのではなかろうか。確かに、日本の裁判官の公平性や倫理観は一般に高い評価に値すると考えられる。しかし、忌避制度を考える際に重要であるのは、前にも述べたように、現実に中立かどうかということにも増して、外部(当事者・一般国民等)から中立にみえるかという中立性の外観の問題である。そのような観点からすれば、参考判例①の判断は、一般国民の視点からみて大きな疑問が否定できない。ほとんどの国民が忌避を参考判例①を批判するところである。国民の司法に対する信頼性が大きく揺らぐ参考判例③と批判するところである。この世論の司法に対する信頼性が大きく揺らぐ現代社会においては、この種の判決が有する意味を今後吟味する必要はとくに、参考判例③が判例としての価値以上の判例を今後吟味する必要があることは難しく、現在のこのような場面では、通常最も有力な省察には、疑問を呈しうることは難しく、現在のこのような場面では、通常最も有力な判断を下しているといえるが、その結果、このような状況が以前から争われる当事者対等の原則に悖るのではないかと指摘されるかもしれない。このように考えれば、現在では、Xの申立は認められる余地もある。参考判例③を含めて、従来の忌避理由に関する判例は、上記のような中立性の外観に関する国民の信頼を離れたものが多いように感じられる。例えば、当事者の一方と敵対する国の行政機関の判決に立つ当事者である場合の判決(例えば昭和58・10・28判時100号125頁)や、裁判官がかつて一方当事者の顧問弁護士事務所に所属していた場合(東京地決平成7・11・29判タ901号254頁)などにも忌避を否定しているが、疑問のきわめつけないところである。「手続に瑕疵を正さず」との目的は対極的に国民の信頼に寄与するのではなかろうか。ただ、裁判所がこのような対応をとることについては、裁判官の不足や濫用的な忌避申立ての実現が危惧されることがある。前者は、特に支部など裁判官の少ない裁判所では、ある裁判官が忌避されることにより他の裁判所からの転補等が必要になる(その結果、事件処理が遅滞する)おそれもあることから、忌避を認めるのに躊躇するという事情である。実務の問題として理解できなくはないが、中立性の外観の確保が司法の要であることに鑑みれば、むしろ司法行政上の配慮が必要となろう(当該裁判所の裁判官全員を訴えるなど濫訴に当たるような場合の施策は別の問題としてあろう)。また、後者も濫用的な忌避申立てに対処する必要はあるが(これについては、後述3参照)、真面目な忌避申立ての場合とは区別して考えるべき問題であろう。3 忌避をめぐる議論忌避をめぐる議論の中で、いくつか取り上げておくと、1つは、2でもふれた濫用的な忌避申立てに対する対策として、申立ての対象となった裁判官が自らその申立てを却下できるという問題である。一般には、忌避申立ての対象となった裁判官はその裁判に関与できない(25条3項)。自己の公正を問題とする裁判に自ら関与することは、忌避の裁判の中立・公正自体に疑いを生じさせるからである。しかし、その忌避申立てが忌避権の濫用であることなどが明らかな場合には、当該裁判官が、自らその申立てを却下できるとする見解もある。その見解を裏付ける下級審裁判例が多く(参考判例③)、東京高決昭和39・10・1民集15巻10号1168頁、名古屋高決昭和53・12・7判タ378号110頁、東京高決昭和56・10・8判時1022号68頁、大阪決昭和58・10・18判タ510号127頁など)。これを簡易却下とよぶ。学説は、簡易却下は訴訟の遅延を目的として消極濫用が有力であったが、最近は、訴訟の遅延の防止する趣旨が一般的に見てとれている。公正な裁判と濫用的訴訟遅延の防止とのバランスの問題であるが、判例が明らかな場合は簡易却下を認めてもよいと解される。なお、刑事訴訟法には明文で簡易却下を定める規定があり(刑訴24条)、民事訴訟法改正の際には同様の規定を設けることが検討されたが、他方では忌避権の濫用をより実質化すべきであるとの意見も出される中で、忌避権の濫用に対する措置のみを立法化することには強い反対があり、断念された(法務省民事局参事官室『一問一答新民事訴訟法』〔商事法務研究会・1996〕51頁)。ただ、この点は近時の非訟事件手続法等の改正の中で、立法がされた(非訟13条5項、家事12条5項)。将来的には民事訴訟法の改正につながる可能性もあろう。また、学説上議論されている問題として、裁判官が忌避になうような事由を認識している場合には、その点を当事者に開示する必要があるのではないか、という点がある。忌避事由開示義務の問題である。参考判例①でも、忌避事由に該当する事情が当事者に明らかにされていなかった点が上告理由であったが、仮に裁判官が、忌避事由の開示義務を認め、義務違反が問題となった場合においては忌避権は失われず、当事者の経済的負担が拡大されよう。この点について、仲裁法において、仲裁人の忌避事由の開示義務を明定し(仲裁18条3項)、義務違反があった場合には仲裁判断の取消事由になる(同条44条1項6号)も参考になろう。●参考文献●谷口康平・争点48頁/谷口康平・百選10頁/小島武司「忌避制度再考」『手続法の理論と実践(下)』(有斐閣・1981)1頁(山本和彦)その場合、当事者であるとして、原告の第三者が名前を騙って原告または被告として訴訟に関与する場合がある(共同訴訟担当)と、当該事件の係属中に当事者でなくなった者を当事者とすると、当該事件の係属中に当事者でなくなった者を当事者とすると、訴訟手続は大きく停滞することになる。いずれもこうした問題を避けるため、当事者の表示の誤記の訂正は訴訟手続の安定を目的として新法により許されることになった。例えば、甲土地の所有権の確認の問題となる場合、すでに判決言渡前に死亡しており、相続人によって新設された事業体の実体があるか、実体法上法人の地位が甲社に新たに設立され、旧社の権利義務の承継がなされることがある(例えば、旧有限会社から株式会社への変更など。昭和56・10・26民集9巻1240頁参照)。2 確定基準に関する考え方以上のように、当事者の確定が問題となる場合、どのような基準で当事者を確定するのかについて、さまざまな考え方が提唱されている。最も基本となる考え方として、表示説がある。これは訴状における当事者の表示を基準に当事者を確定するという考え方である。訴状において原告が表示した者が当事者であるとする。しかし、本問のような場合は、訴状の表示を客観的な記載を基準として判断するだけではなく、訴状の当事者の記載と請求の趣旨・原因を総合的に判断して誰が訴えられているかを判断すべきであるとする、合理的意思説ないし行動説も有力である。後者は、訴訟手るべきであると考える。その判断の状況について判例はどのように考えているのであろうか。原告がすでに死亡している者を被告として訴えを提起した場合には、訴状の記載を形式的に判断するのではなく、訴状の当事者の記載と請求の趣旨・原因を総合的に判断して誰が訴えられているかを判断すべきであると解するのが相当である(これを実質的表示説という)。その際には、誰が被告として表示されているかという点だけでなく、請求の趣旨・原因からみてどのような者が被告となることを意図していたか、という点も考慮する(参考判例①)。その上で、表示の訂正が認められる場合には、その訂正は訴えの変更とは異なり、訴訟係属の当初に遡って効力を生じる。その結果、訂正された当事者が当初から訴訟係属していたことになるので、時効の中断(147条)や期間の遵守(158条)が認められる。これを本問についてみると、原告は、Yの死亡の事実を知らずに訴えを提起している。しかし、訴状の当事者の記載と請求の趣旨・原因を総合的に判断すれば、Yの相続人であるAが訴訟の相手方として意図されていたことは明らかである。したがって、被告の表示をYからAに訂正することが認められ、Aが訴訟の当事者として扱われることになる。以上のような実質的表示説に対しては、訴訟の当事者の確定という訴訟の基本構造に関わる問題を、原告の主観的な意図によって左右することになり、訴訟の安定性を害するという批判がある。しかし、訴訟の当事者の確定を、訴状の記載のみによって形式的に判断することは、当事者の合理的な意思に反する不当な結論を導くことになりかねない。当事者の合理的な意思を尊重し、実質的な紛争解決を図るという観点からは、実質的表示説が妥当であると考えられる。当事者が確定するとする見解(行動説)などがある。例えば、被告とした者がすでに死亡している場合に被告として訴訟を継続したとすれば、原告が実際に訴訟を提起し、被告もこれに応訴し、訴訟を維持している。しかし、訴訟は被告を確定するわけである。しかし、意思説を徹底すれば、その意思が明確である場合、訴訟の行為、行動から当事者を判断すべきである。最近では、学説も多岐にわたるが、訴訟遂行の程度に応じて当事者確定の基準を異ならしめる複合的な基準も有力である。例えば、訴状の表示に当たるべき当事者を選定する場面(規範分担説)では表示説による一方、すでに訴訟が進行し、当事者の交代が生ずるなど複雑な問題が生じたケースとして、昭和56・10・26民集9巻1240頁参照)。本問のように、当事者の確定が問題となる場合、どのような基準で当事者を確定するのかについて、さまざまな考え方が提唱されている。最も基本となる考え方として、表示説がある。これは訴状における当事者の表示を基準に当事者を確定するという考え方である。訴状において原告が表示した者が当事者であるとする。しかし、本問のような場合は、訴状の表示を客観的な記載を基準として判断するだけではなく、訴状の当事者の記載と請求の趣旨・原因を総合的に判断して誰が訴えられているかを判断すべきであると解するのが相当である。3 判例の状況それでは、この問題について判例はどのように考えているのであろうか。思想的、客観的な立場としては、判例は表示説によって考えているといわれる。原告がすでに死亡している者を被告として訴えを提起した場合には、訴状の記載を形式的に判断するのではなく、訴状の当事者の記載と請求の趣旨・原因を総合的に判断して誰が訴えられているかを判断すべきであると解するのが相当である(これを実質的表示説という)。その際には、誰が被告として表示されているかという点だけでなく、請求の趣旨・原因からみてどのような者が被告となることを意図していたか、という点も考慮する(参考判例①)。すると、そこでは、訴状の当事者欄のみならず、提訴可能ではないか、意思表示がされているかという、実質的表示説からの説明も理解ありうる。他方、本問のような事案について、原告は被告の記載を誤ったものと解して、訴状の訂足によるべきものであったと解して、訴状の請求の趣旨によるような場合、訴状によれば、Aが被告となり、訴状却下という結論になるのに対し、訴訟では、Xの合理的な意思を勘案し、相続人であるYを被告としたものであると解して、訴状の記載の誤りを訂正して被告に対する訴訟を維持するという扱いが可能となる。参考判例①もまさにそのような措置をとったものであり、訴訟経済にも理解できなくもない。しかし、参考判例①後の判例の流れをみると、必ずしもそのようなことは言えない。すなわち、大判昭和16・3・15(民集20巻191頁)は、死者名義に訴訟は判決の確定した意思がその効力は相続人には及ばないとするが、これは訴えの提起した意思の確定したものではないことで、訴訟追行の意思が原告に実質的帰属することがない限り相続人が当事者となるものではないと考えるから。昭和41・7・14(民集20巻6号1173頁)は、やはり死者名義で訴訟が提起され、原告が訴訟追行しても、上告審段階で訴訟追行者の相続人の死亡を主張することは信義則に反するとした。これも、当事者は本来相続人であることを前提になし、当事者として訴訟追行してきたYの死亡した後に相続人がその死亡を主張することは信義則違反となるとして、上告を棄却したものである。以上のように、判例の判断は、被告死亡の時期によらず、当事者として誰を訴え、Yと請求の趣旨を考慮するに、当事者としてのYの地位をAが主張するのであれば、Aの訴訟追客を前提に死者Aがする。他方、当事者の死亡の時期は、当事者の判断は、被告の死亡の時期によらず、当事者としての地位に問題はなく、訴訟追行は被告当事者に及ばない判決とした。大判大正6・30民集23巻1129頁、大判昭和2・2・3民集6巻13頁)。これらの学説は、当事者死亡という行動をどう考えるかによって判断が分かれる。しかし、当事者死亡による訴訟が追行されたときは、被告名義の訴状の送達がされた…その者に判決効が及ぶこととして、再審の訴えを認めたのであり、従来の判例を変更して表示説を採用したものと理解された。ただ、同判決は、氏名冒用訴訟について、①訴訟行為者が冒用行為の行為者として、判決が冒用者に対して言い渡された場合と、②訴状の偽造により訴訟代理人を選任し、被冒用者名義で訴訟行為をさせ、判決が被冒用者に対して言い渡された場合とを分け、①は冒用者が当事者となり判決も冒用者には及ばず、②は冒用者は当事者となりその判決効は被冒用者に及ぶとしている。すなわち、従来の判例①の射程に関するものであり、本件は②の類型に当たるものとして、区別を図ったものとも解されよう。以上のように、この点に関する判例はやや混迷したした状況を呈している(いずれにしても大審院時代の判例が多く参照されることからもわかる)。このような問題が発生することも自体が稀有であり、最近の民事訴訟法判決どおり、問題が生じた場合に誰が訴えの解決を図っていくかは大きな問題であろう。ただ、民事訴訟法の基本的な考え方を学ぶためには大変興味深い題材を提供しており、皆さんにもぜひ自分の頭で考えていただきたい問題である。●参考文献●松浦馨・争点58頁/松下淳一・百選12頁/小田司・百選14頁/福永有利「民事訴訟当事者論」(有斐閣・2004)42頁(山本和彦)