「法律行為の基礎とした事情」と錯誤
2022年4月に、美術品の小売業を営むXは、同種の営業を行うYの店舗において、Yから著名な画家Nの筆になる「富岳」と題する絵画をみせられ、Yからこれを180万円で購入する契約を締結(以下、「本件売買」という)、3日後に代金を支払って引渡しを受けた。Xは前々年、Yは10年近く、美術品の取引経験を有する者であり、両者は本件売買の前年も1年半前から互いに美術商として知り合い、これまでに取引をしたことがあった。本件売買の当日、Xは、以前から興味をもっていた画家N筆の「富岳」をYが入手したとの情報を得て、Yの店舗を訪れたのであるが、目当てにしていたN筆の「富岳」は傷や汚れがあったためその購入をやめ、近くに飾ってあった「水仙」に興味をもち、これを購入することにしたものである。その際、Xは、「水仙」についてYに尋ねたところ、Yから、これはMの筆になるものであり、「富岳」と同様、名高い実業家旧蔵の美術品によるものでもあるが、そのほかの問い合わせには応じず、購入を決意したのであった。ところが、その後、この絵画をXがZに200万円で転売しようとした際、Zの要望により鑑定を依頼した結果、実は贋作であることが判明した。本件絵画は、贋作であれば200万円前後の値がつけられるが、贋作であれば20万円以下の価値しかない。Xは、錯誤を理由に本件売買契約の無効を主張し、Yに対して目的物の返還と引き換えに代金180万円を返還するよう請求することができるか。[参考判例]① 東京高判平10・9・28判夕1024号234頁② 最判平元・9・14判時1336号93頁[解説]1 Xの考えられる主張本問では、Xが民法95条に基づき錯誤による取消しを主張して、代金の返還を求めることがまず問われている。本問の事実関係のもとでは、このほか、目的物の契約不適合を理由に契約を解除して代金の返還を求めることも考えられる(後述8)。さらに、Yの詐欺による取消しを主張することも一応は考えられるが、詐欺というためには、Yに欺罔の故意があったことが必要であるところ、本問ではこれは明確にはうかがわれない。なお、仮に本件契約が「消費者契約」に該当する場合であったなら、さらに、消費者契約法4条1項1号に基づく不実告知による取消しの可能性も考えられたであろうが、本問では、XとYはいずれも事業者であるから、同法の適用はない(同法2条参照)。以下では、錯誤に焦点を当てて検討を進める。2 動機の錯誤の取扱いをめぐる従来の議論民法95条は、2017年改正民法(以下、「改正前民法」という)95条のもとでの議論を踏まえたものであることから、まずは同改正前の議論を簡単に確認しておこう。絵画の売買において、真筆であると信じて購入したものが実は贋作であったという場合における買主の錯誤は、表示に対応する意思が欠けているわけではないので表示の錯誤ではなく、従来「動機の錯誤」といわれてきた錯誤類型(後述のとおり、改正民法では95条1項2号に基礎事情錯誤として規定された)の一場合である。改正民法95条では、同条の適用を受ける錯誤を「法律行為の要素の錯誤」と規定しているにすぎなかったため、この規定のもとでの動機の錯誤の取扱いについては、多くの議論があった。(1) 伝統的な考え方:動機表示説(錯誤二元論)改正前民法95条が動機の錯誤にも適用されうるかについて、起草者は否定的だったようであり、初期の判例にも消極的なものがみられた。しかし、後に判例は、「動機が表示されて意思表示の内容とされた」という要件の下で改正前民法95条の適用可能性を肯定するようになった(大判大正3・12・15民録20輯1101頁)。目的物の性状に関する錯誤についても、物の性状は通常法律行為の有効性にすぎないが、表意者がこれを意思表示の内容とし、その性状を有しなければ法律行為の効力を発生させず、しかも取引の観念、事物との常況からみて意思表示の主要な部分をなす程度のものと認められるときは、法律行為の要素の錯誤と解されるべきとされた(大判大正6・2・26民録23輯284頁(売渡証書事件)等)。この考え方は、学説でも通説をなすに至った。(2) 批判説:錯誤一元論しかし、その後学説においては、表示の錯誤と動機の錯誤の区別はしばしば困難であること、動機の表示を要求することは動機の錯誤の範囲に合わないこと、取引の安全の要請を重視する動機の錯誤のみならず表示の錯誤においても存在するなどと理由に、表示の錯誤と動機の錯誤の区別的取扱いを否定する一元的な取扱いをすべきだとし、いずれの錯誤についても、相手方の認識可能性、錯誤の重要性、錯誤の共生などの基準に基づいて、改正前民法95条の適用可能性を判断するべきだとする見解(錯誤一元論)が、有力に主張されるに至った。(3) 新・二元論:改正前民法95条の趣旨排除論一方、動機の錯誤を、表示の錯誤と区別し、改正前民法95条の適用対象から排除すべきだとする見解も、新たに主張された。すなわち、この見解は、動機が誤っていたことのリスクは本来表意者が負担すべきものであって、このリスクを相手方に転嫁できるのは、動機が保証、条件、動機などの形で合意された場合に限るとされる。それらの合意が認められる場合には、同法の適用によってではなく、それぞれの合意の効力や契約責任などの問題として処理が図られるべきだとするのである。(4) 法律行為の内容化論他方、近年は、問題となった事項が法律行為の内容(契約の場合は契約の内容)として取り込まれていたと評価できるか否かにより、「動機」が当事者の合意の対象としてまず契約内容に取り込まれた場合にその錯誤内容化されたことが重要であるとされ、その動機内容化されたことによって改正前民法95条が適用されうるものとする見解が有力に主張され、判例は、動機が表示されたことの表示の式質的な意味を、新たな角度から再評価するという意味も有していた。3 民法95条は、従来の動機の錯誤を、「法律行為の基礎とした事情」に関する錯誤(基礎事情錯誤)として明文化した(95条1項2号)。すなわち、表示の錯誤(同項1号)とは別に、「①表意者が法律行為の基礎とした事情についてのその認識が真実に反する錯誤」を、錯誤の一類型として明確に掲げた(同項2号)。そして、基礎事情錯誤を理由に取消しを主張するためには、「②その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものであること」(重要性の要件)と「③その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていたこと」(②の「表示」要件)が要件となることを明確にした(このほか、③の規定は、錯誤によるものであったときは無効とはできない規定は、限定されてない)。このうち②の要件は、従来の錯誤を基礎事情錯誤に共通する要件であるが、③の要件は、基礎事情錯誤に特有の要件であり、⑤の要件をどのように理解するべきかが問題となる。なお、改正によって、錯誤の効果は、改正前の無効から取消しに変更され(95条1項)、善意・無過失の第三者保護規定も新設された(同条4項)。4 民法における「表示」要件(要件③)と錯誤の要素(要件④)上記③の要件は、基本的には、改正民法のもとでも従来の判例法理につき展開される理屈を明文化したものである。つまり、改正前民法のもとでの判例で用いられた表現は、必ずしも統一的ではなかったが、動機の「表示」を要求してきたことから、これを捉えて現行民法95条1項2号が規定されたものである。もっとも、この「表示」の意味については注意を要する。動機の錯誤に関する従来の判例を仔細にみると、動機が明示的に相手方に伝えられているわけではないことがわかる。動機の表示に微妙な違いがあるが、特に契約における錯誤では、「動機表示不足」の下で国際的な問題とされているのは、当該動機が一方の「単なる動機」にとどまらず、当該法律行為(契約)の内容に取り込まれたと評価しうることができ、その上で判断という点を動機と相手に示していなかった場合に、動機が黙示的に表示」されていた(いわば法律行為の内容になったうえで、両者の通用を肯定したもの)があり(参考判例②)、逆に、表意者が相手に自分の動機を伝えていた場合でも、動機が表示されて行為の内容とされたとはいえないとして、同条の適用を否定したもの(最判昭和37・12・25民集16巻12号2588頁)がある。近時の判例にも、動機の錯誤が相手方に表示されていなかったため、「その動機が表示されて法律行為の内容となった」と認めることが必要であるが(参考判例①)、③の従来の判例は、民法95条が「その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていた」の解釈にも引き継がれることになろう。5 民法95条2項の「表示」と錯誤の解釈このような理解の下に、「その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていた」と認められるか否かは、当該法律行為の当事者の間では、特に契約の場合には、その表示への信頼の有無の問題であり、契約締結の過程でのやり取りや契約書の定めその他契約に至る経緯、当事者の職業や専門性、当該取引が行われた動機などを考慮し、また、一般的な契約の場合には、契約類型、契約目的、契約内容をも勘案し、当該錯誤を要素に意思決定をなすことの蓋然性の程度、当該契約類型のもつ社会的意義を重視すべきことの要請などを評価し意味もあることであろう。たとえば、判例は、クレジット契約上の信義に誠実に対応する義務を負うものと解したうえで、保証人は、申込者の信用状況について、保証人による錯誤の主張を認めた(参考判例③)。これは、当該契約類型の特殊性を前提に当事者の信頼を調整したものである。本問においては、17頁(本件)が「水仙」の真筆によるもので、真筆であったことをXが意思決定の基礎としていたと事情が、その後の行動等からうかがえるものの(富士山の見える土地の売買の錯誤)、Yの一方的な動機にとどまるものとはいえず、XY間の売買が「Mの筆になる真筆の絵画」として行われたと解され、したがって、民法95条2項の表示の要件が満たされると認められる可能性が高いといえよう。6 「表示」要件と錯誤の重要性(要件②)表意者が基礎とした事情が、「法律行為の基礎とされていることが表示されていた」という要件(「表示要件」)と、その錯誤の重要性要件とは、相互に関連するものの、別個の要件と捉えることができる。民法では、この重要性要件が95条1項において、「その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものである」という形で規定されている。改正前民法のもとでも、判例は、「法律行為の要素」という要件について、法律行為の主要部分であって、表意者はこの点に関する錯誤がなかったならその意思表示をしなかったであろうと考えられ、かつ、それが一般取引の通念に照らしても妥当と認められるものというべきとしてきた(大判大正2・10・3民録24巻1852頁等)。民法95条1項は、この判例法理を踏まえ、錯誤と意思表示との間の因果関係要件と重要性要件とに整理したうえで重要性要件を明確に掲げ、その重要性要件の判断において考慮される要素(法律行為の目的および取引上の社会通念)を条文上明確にしたものである。7 表意者の帰責事由(重過失)基礎事情錯誤について、上記の③および⑤の要件が満たされている場合でも、表意者に重大な過失があれば錯誤による取消しは認められない(95条3項柱書ただし書)。この重要性の評価を基礎づける事実は、錯誤による取消しを争う相手方が、主張立証すべきもの(錯誤を理由とする取消しの主張に対する抗弁として機能するもの)と解される。本問のように、表意者X(買主)が絵画等の取引をする事業者であった場合には、購入に際して相応の注意を尽くすべきであって、調査もせずに漫然と買主の言を信じたとすれば、買主に重過失があったともいえそうである。しかし、重過失の有無は、あくまでも他の諸事情を併せて考慮して判断されるのであり、錯誤者が当該取引に関する事業者であったことからただちに重大な過失が認められるわけではない。また、民法95条3項柱書の重過失抗弁は、表意者に重過失があるときは、相手方の利益を犠牲にしてまで表意者の保護を図る必要はないという考慮に基づくのであるから、相手方に保護に値する利益がない場合には妥当しない。民法は、この点に関する改正前民法の下での一般的な解釈を明文化した。つまり、たとえ錯誤者が重過失によるものであった場合でも、①相手方が表意者の錯誤を知り、または重過失により知らなかったとき(同条3項1号)、および、②相手方も表意者と同一の錯誤に陥っていたとき(同項2号)は、表意者はなお錯誤による取消しをすることができる。8 売主の契約不適合責任との関係絵画の売買において、真筆であることが契約内容とされていたのに実際に引き渡された絵画は贋作だったという場合は、引き渡された目的物が品質に関して契約の内容に適合しないもの(品質に関する契約不適合)に該当するので、買主は、契約不適合の場合における売主の担保責任の規定(562条以下)に基づいて権利行使をすることもできる。民法では、品質に関する契約不適合の場合につき、買主の追完請求権(562条)、代金減額請求権(563条)、損害賠償請求権(564条・415条)、解除権(564条・541条・542条)を規定している。錯誤規定と売主の担保責任規定との関係につき、改正前民法のもとでの判例には、契約の要素に錯誤がある場合には担保責任の規定は排除されるとしたものがあった(最判昭和33・6・14民集12巻9号1492頁(イチゴジャム事件))。しかし、これを、買主の救済手段(当時)の主張を認めた結果と批判し、相互干渉が、瑕疵担保(当時)によって売主の過失を問うことはでき、瑕疵による損害を賠償する責任を負わせるための判例であって、逆に、表意者が錯誤を主張せずともっぱら担保責任に基づく解除や損害賠償請求をするにこれを否定する趣旨までをも含むものではなかったといえよう。しかし、改正前民法95条のもとでは、錯誤の効果が有効とされていたことから、限定的な場合にのみ同条の適用が認められるという考慮があったのかもしれない。改正民法では、錯誤の効果は取消しとされ(95条1項)、瑕疵担保規定も新設された(同条4項)。一方で、担保責任は、改正民法では債務不履行の問題に組み込まれることとなった。この新しい規定のもとでの錯誤規定と担保責任規定との適用関係は、今後の解釈に委ねられているが、買主は、それぞれを要件を満たす限り、錯誤に基づく権利と担保責任に基づく権利をそれぞれ選択的に行使することができると解すべきである。関連問題Y(銀行)は、A(会社)の代表者Bから、Aに対する3000万円の融資(信用保証協会保証付融資)の申込みを受け、Aから提出させた信用保証委託申込書等の書類一式を、Yのビジネスバンキングセンターに送付した。同センターは、同書類に基づいて審査を行い、信用保証協会(X)への保証委託を行うことが適当であると判断し、信用保証依頼書等の書類一式をXに送付した。そしてその後、Xから信用保証書を送付されたことにより、YはAに対する3000万円の融資を実行した。しかし、AがYに返済をしないので、Xが保証債務の履行としてYに弁済を行った。ところが、その後、実はAはYから融資された当時、企業としての実体がなく、BがAの運転資金の名の下に金員を詐取することを企てたものであったことが判明した。Yは、Xとの間の保証契約の意思表示を錯誤を理由に取り消して、Yに対し、弁済をした金額の返還を請求しうるか(東京高判平成19・12・13判時1992号65頁)。参考文献山下純司・百選Ⅰ 50頁 / 新堂明子・消費者法判例百選(2010)48頁 / 山本敬三・NBL1024号(2014)15頁、同1025号37頁(鹿野菜穂子)