時効利益の放棄・喪失
貸金業者であるX株式会社は、2024年12月14日、Yに対し、70万円を利息年9.8パーセント、損害金年14パーセント、弁済期を1年後の約定で貸し付けた。Yは、2026年1月17日、Xに対し、本件債務のうち1年間の利息分に相当する6万8600円を支払ったが、その後は2032年3月7日にいたるまで本件債務を弁済していない。2032年5月3日頃、XからYに対し、裁判にかける、差押えをする等の記載のある督促状が届いた。督促状を見て怖くなったYは、同月6日、Xに対し電話をかけたところ、Xの男性従業員Aが対応した。Aは、Yの現在の生活状況を聞いたうえで、Yは長期にわたる延滞状況にあるため、一括弁済が必要であり、分割弁済に応じるのは困難であると説明した。Yは、年金生活者で経済的に困窮していたが、同月7日、1万円を知人Bから借り入れ、Xの指定した銀行口座に1万円を振り込んだ。その後、Yが本件債務を一切弁済しないので、2032年10月10日、XはYに対し、残元本およびこれに対する遅延損害金の支払を求め、訴訟を提起した。これに対し、Yはどのような反論をすることができるか。●参考判例●最判昭35・6・23民集14巻8号1498頁最判昭41・4・20民集20巻4号702頁最判昭45・5・21民集24巻5号393頁最判平28・6・6金法2055号91頁大判大正8・5・12民録25輯851頁●解説●1. Xの請求とYの反論XはYに対し、貸金返還請求権と履行遅滞に基づく損害賠償請求権を行使しているが、この請求を斥けるために、Yとしては、請求権の消滅時効を主張することが考えられる。本問では、この消滅時効の援用が問題となる。(1) XがYに対し貸金返還および遅延損害金を請求する場合において、返済時期の合意があるときは、Xは、請求原因として、次の事実を主張・立証する必要がある(貸金返還と遅延損害金とで訴訟物は異なるが、両請求を立証するには、両請求を成立させるために必要な事実をすべて挙げている)。金銭消費貸借契約の成立(金銭授受の合意、金銭の交付、返還期限の合意、利息の合意)返還時期の到来・経過(2) それに対して、Yは、次の事実を主張・立証することにより、請求権の消滅を抗弁することができる。2017年民法改正により、債権は、①権利者が権利を行使することができることを知った時から5年間行使しないとき、または、②権利を行使することができる時から10年間行使しないときに、時効によって消滅することになった(同条1項)。①が改正により付け加えられた点である。契約に基づく一般的な債権については、その発生時(契約時)に債権者は権利の発生原因および債務者を認識しているのが通常だから、客観的起算点と主観的起算点とは一致する。したがって、貸金返還請求権は5年の消滅時効にかかる。権利行使可能の到来(ただし、Xが①を主張・立証するので、Yによる主張・立証は不要となる)①から5年の時効期間の経過YによるXに対する時効の援用(145条)(3) (2)の抗弁に対して、Xは、YによるXに対する利益支払の事実を主張・立証することにより、時効更新の再抗弁を提出することができる。消滅時効完成前の利息支払は、元本債権の承認(152条)となる(大判昭3・3・24新2873号)。(4) 他方、Yは、利益支払から5年の時効期間の経過とYがXに対して時効の援用をした事実を主張・立証することにより、消滅時効の抗弁を提出することができる。この抗弁は、利息支払を起算点とする貸金返還請求権の消滅を主張するものであり、(2)の抗弁とは別個の抗弁であるから、(3)の再抗弁に対する再々抗弁ではない。また、時効の援用に関する不確定効果説を前提にすると、(2)と(4)の両者の消滅時効が完成したときにいずれを援用するかにYは委ねられるから、(4)の抗弁は、(2)の抗弁に対する予備的抗弁ではなく、選択的抗弁となる。(5) (4)の抗弁に対して、Xは、YによってXに対する債務の一部弁済があったという事実を主張・立証することにより、信義則(民法1条2項)による時効援用権喪失の再抗弁を提出することができる。2. 時効利益の事前の放棄民法146条は、通常弱い立場にある債務者が時効利益の事前放棄を強いられるおそれがあることを考慮して、「時効の利益は、あらかじめ放棄することができない」と規定している。これに対して、時効完成後は、時効利益を受けるか否かは当事者の意思(援用)に委ねられており、時効利益の放棄を許さない理由はないから、同条の反対解釈により、債務者は時効利益を放棄することができる。ただし、会社法31条1項・地方自治法236条2項には、時効利益を放棄することができないものとする例外規定がある。時効利益の放棄は、債務者の意思表示だけで効力を生じ、債権者の同意を要しないが(大判大正8・7・4民録25輯1215頁)、債務者が時効完成の事実を知らなければ、行うことができない(大判大正3・4・25民録20輯342頁)。3. 時効完成後の行為他方、債務者が、時効完成の事実を知らずに、債務の承認や一部弁済等、債務の存在を前提とした行為(自認行為)を行った場合については、民法典に規定がなく(制定法の欠缺)、その取扱いが問題となる。(1) 判例かつての判例は、時効利益の放棄には、債務者が時効完成の事実を知っていたことを要しつつ、自認行為をした場合、債務者は時効完成の事実を知っていたものと推定して(しかも判例はこの推定を破る証拠はなかなか認めないことによって)、時効利益の放棄を認めていた(参考判例①)。いわゆる、「時効利益の放棄の効果を肯定するためには、債務者において時効完成の事実を知っていたことを必要とすることは所論のとおりである。しかし、債務承認のような場合には、債務者は時効完成の事実を知っていたものと推定すべく、従って債務者たる上告人において所論弁済をするに当り時効完成の事実を知らなかったということを主張且立証しない限りは、時効の利益を放棄したものというべきである」とする。しかし、学説は、判例の結論を是認しつつも、時効完成を知らないからこそ自認行為をしたとみるのが自然なので、判例による推定は事実の蓋然性に矛盾するという理由で、その理論構成を批判した。(2) 新判例最高裁は、このような学説の批判を受けて、時効完成後の承認が時効完成の事実を知ってなされたものと推定することは経験則に反するとして、参考判例①を変更しながらも、時効完成後の承認は「時効による債務消滅の主張と相容れない行為であり、相手方においても債務者はもはや時効の援用をしない趣旨であると考えるであろうから、その後においては債務者に時効の援用を認めないものと解するのが、信義則に照らし、相当である」という理由により、「時効完成の事実を知らなかったときでも、爾後その債務についてその完成した消滅時効の援用をすることは許されない」として、旧判例の結論を維持した(参考判例②)。参考判例②の傍論については、判決文の「時効の援用をすることは許されない」を、「時効援用権は存在するが信義則上それを行使することはできない」という意味ではなく、「時効援用権は失われる」という意味に解し、「債務者は自認行為をした場合には時効援用権を喪失する」という法定ルールを信義則に依拠しつつ創造したという理解が一般的である。その後、再び時効が進行する。これを認めた参考判例③も、時効援用権の存続を認めたもの。4. 信義則の機能新たな時効の進行を認めるのは合理的だから、時効援用権は失われるという理解を前提としている。この理解の下では、信義則は欠缺補充機能(根源的機能)を果たしており、事案に直接適用されるのは、信義則ではなく、信義則によって創造された上記の法定ルールである。「時効利益の喪失」という本テーマの表題や、「時効援用権喪失の再抗弁」という(5)の記述は、かかる理解を前提にしている。しかし、以前から「時効完成後、承認等がなされても具体的妥当性の観点より債務者の救済方法として、承認後の時効援用が信義則に反せず許される場合もありうる」という指摘があったが、近時は、実際に信義則違反を否定して時効援用の再抗弁が覆されている(東京地裁平成7・7・26金監1011号98頁、札幌地判平成10・12・22判タ1040号211頁、東京高判平成11・3・19判タ1045号169頁、福岡地判平成13・3・13判タ1129号148頁、宇都宮地判平成24・10・15金法1968号122頁など)。本問の基になった参考判例④は、参考判例②の引用に向けて、「そうすると、時効が完成した後に、債務者が債権者に対して債務の承認をしたとしても、承認後の具体的的事情を総合考慮して、債務者において、債務の承認が時効の援用をしない趣旨であるとの保護すべき信頼が生じたといえないような場合には、消滅時効を援用することは信義則に反せず、許される」と述べ、事案の具体的解決としても、時効の援用を認めた。また、2017年の民法改正時には、参考判例②の法明文化が検討されたが、法制審議会では、実際上、時効が完成したことを知らずに債務の承認をさせられたり、時効が完成した債権のうち少額の一括弁済を迫られ、それによって時効援用権を喪失したと主張されたりすることがしばしばあるため、明文化するのであれば、援用権を喪失しないことをすべきである、という意見がむしろ有力であった。他方で、個別の事情に応じた裁判所の判断に委ねるべきだとして、明文化に反対する意見もあり、結局、規定は見送られた。従来の一般的理解とは異なり、参考判例③のように、信義則違反の有無は個別の事情に応じた裁判所の判断に委ねられるという趣旨に参考判例②を理解する場合には、信義則は、欠缺補充機能ではなく、個別事案に直接適用されることにより、具体的妥当性を図る機能(規範具体化機能)を担う。この場合、(5)以下は、次のように書き換える必要がある。(5) (4)の抗弁に対して、Xは、Yによる時効援用は信義則に反し許されないという再抗弁を提出することができる。評価根拠事実と評価障害事実を総合的に評価して信義則違反の有無を判断する。【評価根拠事実】(信義則違反を基礎づける事実)ⓐ YによるXに対する債務の一部弁済ⓑ Xは、貸金業法の規定を遵守して取り立てにあたっていた。【評価障害事実】(信義則違反の評価を妨げる事実)ⓓ Yは、生活困窮の状況にあった。ⓔ Yに、Xを欺罔するなどの悪質な意図はなかった。ⓕ Xは、Yとの交渉の過程で、本件債務について消滅時効が完成していることを知ったのにもかかわらずYに説明しなかった。ⓖ Xは、時効の援用を阻止する目的で、Yに対して強圧的言辞を用い、分割弁済である旨を言明して一部の弁済をさせた。ⓗ Xは、Yに恐喝心を抱かせるような言動をした。ⓘ Yは、1万円を支払った後は一切支払っておらず、Yには本件債務を任意に履行する意思はなかった。信義則違反の成否は、評価根拠事実と評価障害事実の総合判断によって決まる。総合判断の枠組みとして、ⓐⓑにプラスのポイントを、ⓓ~ⓘにマイナスのポイントを与え、ⓐ~ⓒの和が一定のポイント以上であれば信義則違反を認める、というモデルが考えられる。しかし数値化は現実的でないので、実際には類似の先例の判断を基点として、それとの比較により結論が導かれる場合が多いと思われる。また、先例がなければ、最終的には裁判官の自由裁量に委ねるしかない。なお、主張された評価根拠事実だけで信義則違反を根拠づけることができない場合は、主張自体失当であるから、評価根拠事実・評価障害事実の立証や総合判断は不要となる。民法1条2項は、「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない」と規定する。これを信義誠実の原則(信義則)と呼ぶ。法解釈方法論の観点からは、信義則の機能について、本来的機能と技術的機能を区別することが重要である。●関連問題●(1) 本問において、督促状を受け取ったYが、Xに電話をかけることなく、Xが指定した銀行口座に1万円を振り込んだ場合はどうか。(2) 本問において、Yが、Xの指定した銀行口座に1万円を振り込む際、本件債務の消滅時効の完成を知っていた場合はどうか。(3) 関連問題(1)(2)において、2032年の時点で、Yが被後見人であった場合はどうか。●参考文献●広中俊雄「民法第1条の機能」法教109号(1989)10頁遠藤賢治・百選Ⅰ[第9版](2019)96頁(参考判例②解説)石松稔・岡山商大論叢34巻2号(1998)1頁