ルール作り
(1) なぜルールを作るのかネットトラブルのうち、情報漏えいは従業員の故意の過失により生じるものである。つまり、従業員がわざと、あるいは不注意で情報漏えいしなければ起きるものではない。情報漏えいは、不正アクセスなどの例外を除けば、企業が加害者であり、それが起きるかどうかは、企業(従業員)自身の問題である。したがって、情報漏えいは、企業内できちんとルールを定め、かつ、それを従業員が遵守すれば基本的にはすべて防げる、ということになる。したがって、ルール作りは重要である。正確には情報漏えいとはいえない、従業員や公式アカウントの不用意な言動による「炎上」についても同様である。企業の対外的な情報発信で炎上するケースは、後から出てくるが、「なぜそんなことを言ったのだろうか」というケースが多い。たとえば、就活生への無茶な要求、他社製品との露骨な比較などである。このような投稿は、たとえば、「一定のテーマを禁止する」「事前に複数名で確認する」などを徹底すれば、防げるはずである。また、炎上という域にはとどまらなくても、不適切な言動というのは、誹謗中傷の呼び水となる。もちろん、誹謗中傷においては被害者に責任はない。しかし、被害者に「原因」があることは珍しくない。たとえば、政治的に賛否の分かれているトピックにおいて、片方を応援するかのような(そう理解できる)投稿をした場合、それ自体はもちろん悪いことではない。ただ、それがきっかけで誹謗中傷の被害に遭うということは容易に想定できる。そして、その被害回復の困難性は第1章で繰り返し述べたとおりである。ネットトラブルのうち、誹謗中傷については、「自分は悪くない。悪いのは加害者である」というのは、正しいのだが、その正しさは企業にとってたいした意味がない(正しくても被害回復できない)のである。ネットトラブルの大部分は、従業員の心がけ次第で予防することができる。そして、その心がけを根付かせ、守らせるには、ルールを適切に作成することが重要である。(2) 企業のルールには何があるか企業(会社)のルールというと、真っ先に会社法が浮かぶと思われるが、ネットトラブルにおいて重要なルールはそれではない。ネットトラブルにおいて重要なルールは、従業員と企業との関係を定める労働法、特に労働契約法であり、就業規則である。就業規則は、使用者がつくりあいまであるが自由に定めることができる職場のルールである。なお、自由に定められるといっても、作成や変更には一定の制限がある。就業規則は、10人以上の従業員を常時使用する場合には、作成が義務づけられている(労働基準法89条柱書)。通常は、従業員の賃金や労働時間、休暇休憩などの待遇や服務に関する細かいルールを定めていることが多い。ひな型も書籍やインターネットで豊富に入手することができ、通常は、これらのひな型に各企業の個性、事情を踏まえた修正を施して採用しているケースが多い。就業規則においては、従業員の服務に関するルールも定めることができる。つまり、一定の義務を従業員に課して、これに違反する者に懲戒処分を予定することで、一定の行為をすること、あるいはしてはならないことを義務づけることができるのである。(1)で触れたとおり、ルールを作成するのは、従業員にネットトラブル予防のための心がけを身につけてもらう、ルールを守ってもらうためである。労働契約法は法律なので、各企業がそれぞれ定めることはできない。したがって、自由に定めることができる、この就業規則でルールを定める、ということになる。(3) いらないけれども必要な就業規則の記載(2)で就業規則によってルールを定めるべきであると述べた。しかし、理論的・形式的にいうと、ネットトラブルの予防法やネット利用上の禁止事項などについて就業規則に定める必要はない。法律上の義務はないのはもちろんのこと、実務上でもインターネットの不適切利用(情報漏えいや、他人の権利を侵害する投稿)をすることは、既存の就業規則に違反するからである。要するに、わざわざ定めなくても、インターネットの不適切利用は禁止されているし、それにより懲戒処分を受けることも当然であり、既存の就業規則にも違反する、ということである。たとえば、厚生労働省が提供しているモデル就業規則には「服務規律」がある。この67条には「会社は、労働者が次条のいずれかに該当する場合は、その情状に応じ、次の区分により懲戒を行う(後略)」という定めがある。そして、次条(68条)は懲戒事由を定めているが、1項3に「過失により会社に損害を与えたとき。」との定めがある。また、同2項9では故意の場合も定められており、情報流出はもちろん、誹謗中傷をはじめとしたインターネットの不適切利用は、これらに該当することは明らかである。したがって、就業規則の定めが「足りなくて」ネットトラブルに対応できないということは基本的にあり得ない。筆者の経験上も、これが問題になった事案に接したことは一度もない。それにもかかわらず、就業規則にルールが「必要な」理由は、次の3点からである。① 従業員への周知・教育効果がある。② 違反時の指導が容易になる。③ 違反時の処分が容易になる。①企業は、就業規則について、意見を集めたり(労働基準法90条1項)、周知をする義務がある(同法106条1項)。従業員は就業規則を遵守する義務があり、就業規則への違反は懲戒等の不利益な取扱いの理由になる。したがって、従業員にとって、就業規則に記載されたことに十分注意をし、守る動機にもなる、ということである。本項では、今後、研修のノウハウについても触れていくが、決まりを遵守させる上で重要なのは、「会社のためだけではない。違反をすれば自分にも不利益・責任が生じる」ということを実感してもらうことである。筆者は、企業向けに研修講師を務めることもあるが、「従業員個人に責任が生じる」という話をすると、会場の空気が少し変わる(集中して聞いてもらえる)ことをたびたび実感している。このような意味で、従業員への周知・教育効果を狙って、就業規則に定めを置くことは有効である。②次に、違反時の指導が効果的になるという点も重要である。違反があったが、実際に損害がなかったというケースで、ただちに懲戒処分にするほどではないケースで有用である。たとえば、顧客情報を社外に持ち出してはいけない、というルールがあるにもかかわらず、これに違反したが実際に漏えいなどはなかった、持ち出した期間も短かったような場合には、解雇はもちろん、何らかの懲戒処分とすることも難しいであろう。ただ、こうした場合に、「貴殿は、社外持ち出しが禁じられている顧客データ〇〇〇をUSBメモリにコピーし、これを社外に持ち出しました、このような行為は、就業規則〇〇条〇に違反する行為です。今後、このような行為を行わないように、ここに指導します。」という文書でも指導が容易になる。具体的に、指導をする場合でも、就業規則への違反を指摘することができれば、説得力も増すといえる。③さらに、あまりに悪質であり、懲戒処分をする場合にも有益である。就業規則に直接違反している、また、②のような指導を繰り返したという事実は、懲戒処分の有効性を争われた場合の非常に有力な武器になる。ネットトラブルに限らないが、従業員を懲戒する、特に解雇処分については、それまでの積み重ねが大事である。「前々から不良社員だった。これで堪忍袋の緒が切れたので、解雇する!」というのは、なかなか通用しないことが多い。それまでに、問題を指摘して指導に努めてきたが、一向に改善しない、といううことが重要になる。以上、要するに、就業規則にネットトラブルの予防のために、ネットの利用について定めることは、純粋に法的にいえば、必要はない。私的利用や誹謗中傷、情報漏えい、不適切なネットの利用は、いずれも、既存の就業規則に違反するし、懲戒処分ができなくて困るということはまずあり得ない。しかし、それをあえて明文でえて定めることで、従業員に自覚を促し、指導をしゃすくするという効果がある。これが、「いらないけれども必要」であると表現した趣旨である。さて、最後に具体的な定めであるが、理想をいえば、本章2節以降で述べるような内容を具体的に記載することが望ましい。もっとも、就業規則の修正には一定の手間、手続が必要になるため、細かい改正に対応することが難しい。したがって、大まかな基本点だけを定め、細かい部分は、会社の指示に従う、ルールに従う、というように記載することが効果的である。【就業規則に定めを置く場合の文例】第○○条 労働者は、会社から貸与されているコンピュータ、通信回線を適切に利用し、私的に利用(休憩時間を含む。)をし、あるいは会社に対して損害を与える使用をしてはならない。2 労働者は、会社から貸与されているコンピュータ、インターネットの利用について、会社の指示並びに定められたルールを遵守しなければならない。3 会社は、職務上の必要がある場合は、労働者に貸与したコンピュータ、インターネットの利用について、必要な調査を行うことができる。労働者は、この調査に協力しなければならない。後記(4)で触れるとおり、細かい指示については、会社向けの電子メールで注意点、遵守事項を伝えることも必要かつ有効な手段である。このような場合に、おいて、上記2項は、細かい(細かすぎまり)を別に定めることができるという効果がある。上記3項は、不適切使用については、たとえばブラウザのアクセス履歴を確認する必要も出てくるので、その調査権限を定めたものである。もちろん、これらの条項がなくても、会社に損害を与えるような利用をしてはならないのは、当然である(1項)。従来から各社が持っているような就業規則には、会社の物品を適正に利用しなければならない、業務外に利用してはいけない、利用することで会社に損害を与えてはいけないという趣旨の定めがあるはずである。それでも、理論的には十分にに対応できる。上記2項や3項についても、概ね同様であろう。もっとも、上記①ないし③で述べたとおり、就業規則上にこのような記載をすることで、従業員に明白に、ネット利用の適正確保のための意識を持たせることができる。また、違反時の指導についても、就業規則の条文を提示することができれば、従業員への教育効果も大きくなるであろう。したがって、こういう定めは、「いらないけれども必要」であり、そして有効に作用する。(4) メールで周知するだけでも効果ありこのようなルールの定めについて、就業規則で細部に至るまで定めるのは現実的ではない。それこそ、本章2節以降で触れるような、「送信」機能の利用や、タイトル、クラウドの関係など、そのようなものをすべて定めるとキリがない。そこで、前記(3)の就業規則の文例の2項に定めるとおり、会社は随時にルールを定めるが、従業員はそれに従うように定めることが適切である。法律の話にたとえると、国会を通す必要がある法律に細則まで定めると大変なので、細部は省令で定める、とする例は多数ある。就業規則と社内ルールもそのような関係にあるといえる。具体的には、社内ルールということで、本章3節以降で触れるようなルールを、随時、メールで周知することが有効である。メールであれば、一種の文章として証拠に残る。そうであれば、遵守しなかった場合に、指導したり、処分をしたりするときも役に立つ。加えて、折に触れて口頭で伝えるより、ルールとして文章の形式で伝えられたほうが、言われるほうも守りやすい。したがって、随時、メールでルールを周知することは有効適切である。